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6 September 2022

【沖縄復帰50年】インタビュー② ひめゆり平和祈念資料館・普天間朝佳館長「記憶の継承―沖縄から平和を考える」

今年、沖縄が日本に復帰して50年を迎えます。この半世紀を振り返り、沖縄の人にインタビューをしながら、日本本土とは異なった歴史や文化を持った沖縄の現状を様々な角度から考えます。

回目のインタビューは、ひめゆり平和祈念資料館の普天間朝佳(ふてんま・ちょうけい)館長です。普天間さんは、1989年資料館の開館時に職員として採用され、2018年、戦後生まれとして初の館長に就任。沖縄戦、ひめゆり平和祈念資料館の開館から現在まで、そして未来への継承について伺いました。

― 沖縄戦と「ひめゆり学徒隊」について教えて頂けますか? 

1945年3月、アジア・太平洋戦争の末期、日米両軍は沖縄で住民を巻き込んだ地上戦を繰り広げました。1945年3月23日の深夜、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校両校の女子生徒222人と引率教師18名の合計240名からなるひめゆり学徒隊が、沖縄陸軍病院(通称・南風原陸軍病院)に看護要員として動員されました。ひめゆり学徒隊は、各壕に分かれて働くことになり、主に負傷兵の看護や治療の手伝いなどの仕事をしました。寝る間もほとんどないまま、看護で昼も夜も働き続けることになりました。10代の普通の女子学生にとって壮絶な作業でしたが、それでも入る壕はあり、食料もおにぎり1日1個が何とか確保されている状況でした。

ひめゆり学徒隊が動員されていた沖縄陸軍病院跡

その後、米軍に追われ沖縄本島南端に撤退。 そして、1945年6月18日の夜半、陸軍病院では学徒に「解散命令」が出ました。「これからは壕を出て自分の判断で行動しなさい」と言われたのです。生徒たちは壕の外に出され、米軍が目の前にせまり砲弾が飛び交う中、逃げ回りました。当時、「米軍の捕虜になるのは恥」という考えが植え付けられていたので、学徒たちは捕虜になることを恐れ、沖縄南部の海岸近くの戦場をさまよっているうちに命を落としました。解散命令後のわずか数日間で、ひめゆり学徒隊100名あまりが亡くなりました。

― 捕虜にはなってはならないという一心だったんですね。 

当時生徒たちは 、「絶対に捕虜になってはいけない」と考えていました。 またアメリカ兵に捕まったら女性はレイプされ無残な殺され方をされると、信じ込んでいました。その恐怖で、生徒たちは戦場を逃げ回り、早く米軍の捕虜になれば助かった命もたくさん失われました。一方、戦後生き残った人は、学友は死んだのに自分は生き残ってしまったという思いを抱き続け、長い間、自分の戦争体験を語ることはありませんでした。 実は沖縄では、長い間、沖縄戦が語られてきませんでした。

― どうして語られなかったのですか? 

沖縄では、よく沖縄戦の話をしているのではないかと思っている方が多いのですが、家庭の中ではなかなか語り継がれてきませんでした。家庭というのはある意味憩いの場所で、よほど子や孫たちに絶対伝えようという強い意思がなければ、過酷な体験を話すことができなかったのかもしれません。ひめゆりの生存者のなかにも、子供たちには話してこなかった方は多いですね。

― 普天間さんと沖縄戦との出会いは? 

大学の頃、ゼミで、毎週1冊沖縄戦の本を読む課題があり、その時に初めて沖縄戦と出会いました。

沖縄が日本に復帰した1972年、私は中学生でしたが、当時学校教育の中で沖縄戦の学習というものはありませんでした。当時の世間の関心は沖縄復帰運動であり、米軍基地関係者による事件や犯罪が多発していたこともあって、沖縄の米軍基地による人権問題が社会的な関心事でした。

しかし1970年代後半から80年代にかけて、沖縄県立平和祈念資料館の展示問題や 、教科書の沖縄戦の記述から、日本軍によって住民が殺されたという記述が抜け落ちる問題などが発生し、「沖縄戦について正しく伝えよう」という機運が高まりました。同時に、沖縄への修学旅行が増えたことで、平和教育や沖縄戦の学習が始まりました。こうして70年代後半から、沖縄戦の話を聞くことが大事だという雰囲気になりました。昔から沖縄戦が教育の場で取り上げられたというわけではなく、学んでいくきっかけを作ったのは社会的な機運や風潮が大きかったと思います。

― ひめゆり平和祈念資料館の開館にはどんな背景があったのでしょう?

 70年代後半、ひめゆり学徒隊の生存者と卒業生によるひめゆり同窓会は沖縄戦で消滅した母校の再建を模索しましたが、資金難などの理由で断念せざるを得ませんでした。しかし戦後40年近く経って、生存者たちは、多くの人の心の中から沖縄戦の記憶が忘れられていくように感じ、自分たちが体験した戦争の実相を伝えるため、平和資料館を作ろうと決意しました。建設にあたって、同窓生が一丸となって資金集めをし、生存者たちが展示づくりを担当しました。

生存者たちは沖縄戦のときに自分たちが入っていた壕に40年ぶりに入り、遺品や遺骨を発掘・収集し、お互いの証言の聞き取りをしました。壕で収集された学友の筆箱や下敷きなどは、現在の資料館に展示されています。泥の中から学友が使っていた下敷きや筆箱などの持ち物が出てきたときに、「大切な学友たちのものが40年も埋もれたままになってしまった。もっと早く来てあげればよかった。 」と泣きながら拾ったと聞いています。それが開館後、活動を続ける原動力になったのではないかと私は思います。

沖縄戦の組織的戦闘が終結した日から44年後の1989年6月23日、ひめゆり平和祈念資料館が開館。

― 開館後、どのような活動をされてきたのでしょうか?

 元ひめゆり学徒は、開館後に「証言員」となり、展示室での説明や講話を通じて、自らの戦争体験を語り伝えました。元ひめゆり学徒隊の生存者は、戦後、教員をしていた方が多かったので、人前で話すことには慣れていましたが、最初から自分の体験をスムーズに話していたわけではありません。学友の話になると、胸が詰まって声が出なくなり、涙が出ることがありました。しかし、来館者の真剣なまなざしと共感が彼女たちにとって大きな励みになり、伝えることのやりがいも感じるようになったのです。後世にしっかり伝えなければいけないという思いが原動力となって、 30年近く証言活動を続けることができたのだと思います。また、彼女たちは学芸員とともに企画展やイベントなどを通して積極的に沖縄戦やひめゆりの戦争体験について伝えてきました。

来館者に説明する証言員(元ひめゆり学徒隊)

― 次世代へ繋げていくには? 

2000年頃になると、生存者は80代に差し掛かり、自分たちがいなくなった後も資料館で自分たちの体験を伝えていくことができるためにはどうしたらいいか、今後について考えるようになりました。当時の証言員たちの中では、「体験していない人が戦争体験を伝えることは難しいだろう」という意見が多かったです。
私自身の中でも、彼女たちと仕事をするなかで、知識としての「沖縄戦」が実態を伴うものに変化していきました。彼女たちの思いを受け継いでいかなければという思いが少しずつ生まれました。しかし、彼女たちの語りの重み、迫力を前にすると、自分には到底できないと思うことがありました。そこで、証言員6人といっしょに、語り手の世代交代が早く進んでいるヨーロッパ(アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館やアンネ・フランクの家など)へ視察に行きました。

 

― アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館はいかがでしたか。 

戦争を体験していない人がしっかり戦争を伝えている姿が印象的で、勇気づけられました。アウシュヴィッツ博物館で唯一のアジア人としてガイドをつとめる中谷剛さんは、抑揚をつけることなく、淡々と話しますが、アウシュヴィッツの現場の力もあって臨場感が非常に伝わってきます。この経験から、伝える人を育てる重要性を学び、資料館のその後の活動に繋がっていきました。

アウシュヴィッツ博物館で唯一のアジア人ガイドとして伝える中谷剛さん

―2018年、戦後生まれ世代の館長になられたときの心情はいかがでしたか? 

前館長の島袋淑子(しまぶくろ・よしこ)さんが7年館長を務められていて、私はずっとそのサポートをしていましたが、彼女の「伝える力」を前にすると、このような重責を担うことは私には到底できないと思いました。しかし、館長含め証言員たちも90歳近くになっていたので、これ以上無理をお願いするわけにはいきませんでした。彼女たちの仕事や活動を受け継ぐのは私1人じゃなくて、戦後生まれの職員も含めて全員が同じ気持ちで継承しようという思いでした。

2021年2度目のリニューアルでは、初めて戦後生まれの職員が中心になり、「戦争からさらに遠くなった世代にも伝わる」展示を企画しました。非体験者の視点から、戦後生まれの世代にどのように伝わるかを考え、試行錯誤しました。

2021年にリニューアルした資料館の第1展示室

― 開館から33年になりました。

1989年にひめゆり平和祈念資料館が開館したとき、ちょうどソ連の崩壊につながっていく冷戦が終結する年でした。同じ年の11月に東西ドイツを隔てていたベルリンの壁が壊され、これからは平和な世界になっていくという機運がありました。しかし、その後もずっと戦争や紛争は絶えず、テロもあり、アジアの状況にも危機感が募っています。今後も、戦争の恐ろしさや平和の大切さを繰り返し、語り継いでいく必要があると感じています。

― 今後の資料館のあるべき姿をどう考えていますか? 

私たちが伝えるべきことは開館以来、変わっていません。戦争がいかに悲惨で過酷であるか、命がいかに尊いものか。ただ、世代が変わると伝わりづらい側面があるので、私たちの役割は、いかにして新たな世代に伝えていくか。これからの課題としては、戦争をいかに自分事として受け止めてもらい、若い世代に考えてもらうか。国際的なネットワークを強化して、沖縄の外にも私たちの活動を繋いでいく試みを行っていきたいと思っています。

ひめゆり平和祈念資料館(左)とひめゆりの塔

 

「元ひめゆり学徒隊」について

― 1945年3月23日、18名の引率教師と222名の生徒が沖縄戦に動員され、136名が亡くなった(内訳は、教師13名、生徒123名)
ひめゆり平和祈念資料館の証言員について
― ひめゆり平和祈念資料館 で証言活動を行った証言員 :30名
― 2022年8月時点の証言員数:4名(全員90歳を超える)

 

(聞き手:太田奈那、校正:小林恭子、英語翻訳:ジェイスン・ジェイムズ)

(写真提供:ひめゆり平和祈念資料館)

 

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